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第3話 存在価値

last update Last Updated: 2025-05-17 21:21:39

 楓の家族は父と母と妹の四人家族。

 父は医者、母は専業主婦、妹は進学校の私立中学に通っている。

 父は家族に関心がない。

 楓が物心つく頃から可愛がられた記憶はなく、いつも冷たい目で見下ろされたことしか思い出さない。

 父には愛人がいるようで家にいないことが多かった。

 母も愛人の存在を知っているようだったが、父に捨てられることを恐れ何も言わず耐えていた。

 母がいつもイライラしていることが多いのは、そのせいもあるのかもしれない。

 父は決して家族を愛しているようには到底思えなかった。

 朝早くに出て行き、夜遅くに帰ってくる。

 家族とは滅多に顔を合わせないし、合わせたとしても話もろくにしない。

 休みの日があっても、家族をどこかへ連れていくことは絶対ないし、自分のためにしか時間を使わない。

 助けが欲しいときも、助けてくれたことはなかったし、はなからそんなモノに気づくことはない。

 妹の美奈(みな)は誰からも愛されていた。

 頭が良く、容姿端麗、要領もよく、友達も多い。

 大人たちからも信頼されていた。

 そんな美奈が、父と母から寵愛を受けるのは、ごく自然なこと。

「お姉ちゃんも、もっと賢く生きた方がいいよ」

 昔、楓は美奈にそう言われたことがある。

 楓には無いものを沢山もっている、それが楓の妹、美奈だった。

 母の亜澄(あすみ)は、とても繊細で傷つきやすく、とても脆い人。

 いつも自分を守ることに必死で、余裕がない。

 父に愛されるため、妹に気に入られるため、いつも二人に尽くしている。

 まるでそのことで、自分の存在を確かめているかのように。

 ただ、楓にだけは違っていた。

 亜澄は楓の前だといつもイライラしていた。

 美奈のことは可愛いのに、楓のことは可愛くない。

 どうしても愛せなかった。

 ストレスが溜まるたび、それを楓にぶつける日々。

 亜澄は楓に嫌悪感しか感じられなかった。

 これが、楓の家庭の当たり前だった。

 この家族しか知らない。この家しか帰る場所はない。

 たとえそれが、地獄のような日々だったとしても――。

 楓は一人、家路を歩いていた。

 だんだん家が近づくにつれ、楓の胃がシクシクと傷み出す。

 帰りたくない、しかし、行く当てもない。

 どこへ行けばいいのかわからない、行きたいところもない。

 重い足を懸命に前へと運びながら、楓は懸命に歩いていく。

 玄関の前に立つと、深呼吸をして気を落ち着かせる。

 恐る恐る扉に手をかけた。

 いつも、この瞬間が大嫌いだ。

 どうか、どうか、無事に家に入れますように……。

 怖くて手が震え、心拍数が上がった。

 音を立てないように、そっと扉を開ける。

 目の前には、仁王立ちした母、亜澄の姿が目に飛び込んでくる。

 心臓が跳ね上がり、血の気が一気に引いていく。

「しまったっ」と心が叫ぶが、もう手遅れだ。

 地獄が始まる――

 扉がゆっくりと閉まっていった。

「った、ただ……いま」

 楓は逃げ出したい思いを必死に抑え、震えながら蚊の鳴くような声を絞り出す。

「いつも早く帰れって、言ってるよね」

 イライラしているときの声だと、楓はすぐに察知した。

「っ、ごめんなさい」

 謝ろうと亜澄に目を向けた途端、パンッと大きな音が鳴った。

 頬に痛みを感じる。

 無機質な亜澄の冷たい目が、楓を見下ろしていた。

「ごめんごめんって! あんたはそれしか言えないの!」

 亜澄が大きく手を振りかぶり、楓は衝撃に備えた。

「母さん?  どうしたの?」

 そのとき、ちょうど妹の美奈が二階から降りてきたようだった。

 亜澄は慌てて美奈の元へと駆け寄っていく。

「ごめんね、うるさかった?」

 先ほどとは打って変わって、亜澄は美奈に媚びるような猫なで声を出す。

「ううん、別に……お姉ちゃん、大丈夫?」

 玄関で座り込み、俯いている楓の様子が気になったのか、美奈が視線を向ける。

 その視線を遮るように、亜澄が美奈の前に立ちはだかった。

「大丈夫よ、お姉ちゃんちょっと具合悪いみたいね。

 さ、美奈ちゃん、美味しいお菓子があるから食べましょう」

 亜澄は美奈を促し、リビングの方へと連れて行こうとする。

 そのとき、亜澄は楓の方へと顔を向け、口をパクパクさせた。

 亜澄の不適な笑みを最後に、二人はその場から姿を消した。

 楓には、亜澄が何を言っているのかわかっていた。

「……はい」

 誰にも聞こえない小さな声を発し、楓は力なく立ち上がった。

 学校から帰ってくると、料理、洗濯、掃除、すべての家事を楓がこなす。

 それを終えたら、亜澄と美奈の残り物のご飯を食べ、残り湯でお風呂に入り、あとは眠りにつくだけ。

 その繰り返し。

 父は夜中に帰ってくるか、朝帰り。

 楓たちのことなど興味もない、家事を誰がしているかなど気づいてさえいないだろう。

 亜澄はいつもそんな父を待ち、帰りが遅いといつまでも家の中を徘徊していた。

 もう楓は誰に期待することもやめていた。

 すべてを諦め、生きることを選んだのだ。

 誰も助けてくれない、誰も必要としてくれない。

 だったらどうすればいい?

 こうするしかない。

 だって、期待しても裏切られる。

 傷つくのはもう嫌だ……もう疲れた。

 存在価値は、誰かが自分を必要としてくれることだけ。

 必要とされなくなったら、生きている価値がなくなる……本気でそう思っていた。

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